重信房子さんを直ちに釈放せよ!
日本赤軍シンパとみなした人への弾圧を止めよ!

English

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(11月12日 英文からの和訳)

★ 重信房子さん(日本赤軍)逮捕される! 重信さんを直ちに釈放せよ!

世界中の同志・友人のみなさんへ

日本赤軍JRAの指導者である重信房子さんが、11月8日(水)の朝、大阪(関西地方)で逮捕されました。重信さんはその後、警察によって東京の警視庁に移送され、取調べを受けています。

私たちは重信さんや日本赤軍と政治路線が異なりますが、警察による重信さんの逮捕および引き続く弾圧に強く抗議します。公安警察は、支援者とみなした人々、活動家を弾圧しようとしています。

重信房子さんを直ちに釈放せよ!
日本赤軍シンパとみなした人への弾圧を止めよ! 

2000年11月12日

津村 洋(『国際主義』編集会議)
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また、この情報を関心のある方々に回覧していただけるようお願いします。


★ 日本赤軍にかんする略史

1958年12月:
共産主義者同盟(共産同またはBUNDとして知られている)、全学連に指導された戦闘的な学生運動を基盤に創設される。日本共産党JCPならびにスターリン主義的権威からのはじめての大規模な離脱・分裂として。

1966年9月:
1960年の日米軍事同盟に反対する安保闘争の一大高揚の後分裂した共産同各派の再編成により共産主義者同盟(第二次BUND)再建される。

1969年8月:
安保闘争の高揚の中で、共産同内の暴力的な分派闘争を経て、塩見孝也さんに率いられた関西を主要な基盤とする赤軍派が、前段階武装蜂起をかかげて結成される。重信房子さんは当時、赤軍派の主要な学生活動家であった。

1970年3月:
田宮高麿さんに率いられた赤軍派のコマンド部隊(いわゆる「よど号グループ」)が日航のよど号を富士山上空でハイジャックし、前段階武装蜂起・世界同時革命のための国際根拠地建設を目的として北朝鮮へ。

1971年2月:
「よど号グループ」と同様の目的で、重信房子さんなど赤軍のコマンドグループがレバノンに向かい、アラブ赤軍(後の日本赤軍)を建設。日本赤軍は、パレスチナゲリラ、とりわけパレスチナ解放人民戦線と提携する。

1971年7月:
日本では、赤軍派と日本共産党革命左派が連合赤軍を結成。1972年2月、連合赤軍が山荘を占拠し警官隊との銃撃戦を展開。がその直後、連合赤軍による同志たちへの粛清・虐殺が暴露される。

1972年5月:
日本赤軍のコマンド、イスラエル・テルアビブの国際空港を襲撃。24名死亡、80名負傷。

1973年7月:
日本赤軍+パレスチナ・ゲリラ、オランダ上空で日航機をハイジャック。リビアで乗員乗客は解放され、機体は爆破される。

1974年2月:
日本赤軍+パレスチナ・ゲリラ、ベトナム革命戦争に連帯し、シンガポールのシェル石油タンクを爆破。

1974年9月:
日本赤軍コマンド、ハーグのフランス大使館占拠。獄中の日本赤軍メンバーの釈放と交換にフランス大使釈放される。

1975年8月:
日本赤軍コマンド、クアラルンプールのアメリカ、スウェーデン、日本、カナダ大使館のあるビルを占拠。獄中の5人の赤軍派および東アジア反日武装戦線メンバーと引き換えに53人の人質を解放。

1977年9月:
日本赤軍コマンド、インド上空でJAL機をハイジャック。日本政府は、赤軍派および東アジア反日武装戦線などの獄中者を解放し、600万ドルを支払う。

1988年4月:
日本赤軍コマンド、イタリア・ナポリの米軍レクリエーション・クラブを爆破。5人死亡。

1997年2月:
レバノンで5名の日本赤軍メンバー逮捕される。

1997年3月:
レバノン政府は岡本公三さん以外の4名の日本赤軍メンバーを日本に追放。4名は日本で逮捕される。

2000年11月8日:
重信房子さん、日本の関西地方・大阪にて逮捕される。


★ 重信房子さん、日本赤軍支援者とみなされた人々への弾圧情報

2000年11月8日

日本赤軍の重信さん、大阪にて逮捕される 重信さんを直ちに釈放せよ!

 11月8日(水)朝、日本赤軍の指導者、重信房子(55)さんが、大阪の高槻市にて逮捕されました。宿泊していたホテル前で重信さんを逮捕した警察は、高槻警察署に連行し、その後取り調べのため東京の警視庁に移送しました。警察による厳重な警戒にもかかわらず、重信さんは、手錠をかけられた両手を掲げ、親指をたて、闘争精神を明らかにしました。
 警察車両で警視庁へと移送されるとき、とくに東京駅に降り立った時、重信さんは報道陣にたいして何度も親指をたてて意思表示をしました。重信さんは、何度も笑顔で「がんばるから」と言い続けました。

 重信房子さんは、1969年当時、共産主義者同盟(共産同、BUND)の赤軍派のメンバーで、1971年2月にはレバノンに飛翔し、アラブ赤軍→日本赤軍を建設しました。重信さんは、日本赤軍のリーダーであり、イスラエル・テルアビブのロッド空港攻撃の赤軍メンバーとして死亡した奥平タケシと結婚しました。

 1974年7月13日、武装した日本赤軍コマンドがオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠し、大使と大使館員10名を人質に取りました。警察は、予断と偏見をもって、重信さんがこの襲撃の黒幕であると断定し、彼女を逮捕したのです。

 ベイルートに拠点を置いた日本赤軍は、1972年テルアビブのロッド空港襲撃作戦を敢行したり、1977年パリ行きの日航機をハイジャックしてダッカに着陸させたりしました。しかし、パレスチナ・ゲリラがベイルートから徹底してからはレバノン東部に移動していました。

 1975年、日本赤軍の活動が活発であったとき、日本の新聞は重信さんとのインタビューを行いました。そのとき、重信さんは、自分たちの人数の大小にかかわらず、革命的大儀に順ずる意思を明確にしました。


2000年11月9日

重信さん、黙秘を貫徹

 重信房子さんは、昨日朝、大阪で逮捕され、1974年ハーグでのフランス大使館占拠での逮捕監禁容疑で警視庁に移送されました。彼女は、フランス大使館占拠へのかかわりと殺人未遂の罪状により逮捕・拘禁されています。
 大阪での重信さんの滞在先から摘発された2つのパスポートから、レバノン政府が1997年に和光ハルオ(52)など5人の日本赤軍メンバーを逮捕して以降、何度も日本を出入りしていることが明らかになりました。重信さんは非公然に、香港やマカオ経由で北京から日本へしばしば入国・旅行していました。パスポートは、去る9月に最後にこうしたルートを経由して日本に入国していることを示しています。
 警視庁は日本や北京での滞在目的を取り調べていますが、そうした疑いにたいして重信さんは黙秘を貫徹しています。


2000年11月10日

警察は恐怖を煽り、不当な大弾圧を準備している

 警視庁は今朝、東京地方検察庁に、逮捕した重信さんの書類を送付することしかできませんでした。
 通常警視庁は、事件に関する書類とともに当人を検察庁に送るわけですが、今回は重信さんを送致することもできず、警視庁を訪れた検察庁に書類を渡すことしかできませんでした。日本赤軍や支援組織による奪還を恐れた警視庁は、特別の手続きにしたがってそうしたわけです。
 警視庁は、大阪府警と連携し、日本赤軍支援者および支援組織とみなした人々がどのように重信さんの日本入国・滞在を支えたかを調べれいます。警察は、これまで重信さんおよび彼女が滞在していた大阪の住居から、二台のラップトップ・パソコン、数十枚のフロッピー・ディスク、7台の携帯電話を押収しています。警察は、日本における日本赤軍指導者の活動を洗い出し、日本で密接に接触していた日本赤軍支援者とみなした人々への弾圧の機会をうかがっています。
 警察はまた、重信さんが、1997年以来、日本赤軍支援者グループの再生のために何度も日本を訪れ、日本赤軍シンパ組織の全国的ネットワークを形成するための会議に参加していたとみなしています。
 重信房子さんは、1999年9月以降、大阪を基盤としする戦闘的活動家たちによって発行されている「人民新聞」に9っつの記事を書いています。警察は、レバノンで書いたというそれらの記事について、いくつかは実際に日本で書いたのではないかと疑っています。
 重信さんが最近「中東レポート」として10月17日に発した記事は、中東における最新の暴力的エスカレーションに関して、パレスチナ解放人民戦線PFLPやパレスチナ民主戦線のコメントを引用しています。これは、パレスチナ・イスラエルをめぐる現情勢の理解を明瞭にするもので、日本の人々への教育的な働きかけ、情報提供でもあるわけです。
 警察は、1990年代中葉以来の新たな支援者たちによって、とくに関西地方における日本赤軍にたいする政治的シンパの国内的ネットワークを活性化されることを心底恐れています。
 警察は、新しい支援者たちが、重信さんにたいする携帯電話、隠れ家、入国に際してのパスポート用資料の提供において、主要な役割をになっていたと疑っています。
 重信さんが大阪に潜伏していた期間、警察は、関西地方における日本赤軍支援者たちがとても活発に活動していたと推測しています。公安警察当局は、逮捕歴があり、警察に知られているかつての活動家たちと異なり、新しい活動家たちを捕捉しずらいと嘆いています。
 それゆえ、「人民新聞」や他の(警察によって)日本赤軍とみなされた活動家たちへの家宅捜査などの弾圧が問題となっています。私たちは、こうした弾圧を断固として糾弾し、重信房子さんの即時釈放を要求します。


2000年11月16日

拘留理由開示公判で重信さん、自己批判と決意表明を明らかに

 11月8日(水)に逮捕された日本赤軍の指導者、重信房子さんは、11月16日の公判において、日本に帰国して以降逮捕は覚悟していた、しかし、準備を完了するまで来年の春までは逮捕されたくはなかったと語っています。
 「来春、桜の花が咲くころまでには逮捕される用意ができていました」と、東京地方裁判所での拘留理由開示公判にて語りました。
 刑事訴訟法は、拘留理由開示公判を義務づけています。
 重信房子さんにたいする11月16日の拘留理由開示公判にて、彼女は、組織の名前で実行された攻撃において、日本赤軍が「意図しなかった」肉体的・精神的苦痛を人々に与えたことを自己批判しました。
 しかし、重信さんは、パレスチナにおける日本赤軍の闘争を誇りにし、自分たちの組織にたいする「テロリスト」という規定が真実を覆い隠していることを訴えました。
 重信さんは、1974年9月のハーグにおけるフランス大使館占拠闘争へのかかわりの容疑で逮捕されたわけですが、そのような嫌疑を否定し、公判においてその事件における自分の役割を明らかにすると語っています。重信さんは、1974年の嫌疑で警視庁による国際手配リストにのぼっていましたが、彼女自身はこの事件に加わっていなかったし、他の実行にも加わっていたという証拠もありません。
 警察は、重信さんが隠れていた大阪・西成区のアパートから、「人民革命党」の綱領を含む数多くの文書、フロッピー・ディスク、パスポートを押収しました。
 重信さんは、偽造パスポートを活用して、過去3年の間8回にわたって、日本と北京、マカオ、香港の間を旅していました。その間、計1年以上も日本に滞在していました。
 重信さんは、日本への帰国の目的に関して、「本名で戦える情況を創り出したかった」と語っています。また、日本で逮捕されることを覚悟で、日本での活発に活動し、日本や世界で国際的な経験を生かしたい、世界や日本を獄中からでさえよりよくしたい、とのぞんでいます。


2000年11月21日

日本赤軍創設者、重信房子さんをかくまったかどで二人逮捕される!
全国計41箇所のガサ入れ強行は不当だ! 逮捕された二人を釈放せよ!

 (大阪)11月21日(火)、警察は、日本赤軍創設者=重信房子さんを日本でかくまったかどで二人を逮捕しました。高校教師のカタオカ・アキヨシ(45)と自営業のオオガ・タダシ(53)の二人は、日本赤軍のシンパとみなされ、警察によって逮捕されました。
 二人は、国際的に手配されていた重信房子さんの隠れ家を大阪市西成区に提供したかどで逮捕されたわけです。

逮捕された二人は黙秘を続けている

 警視庁と大阪府警の合同操作チームは、二人の逮捕に続き、重信さんを支援した人々とその運動を弾圧しようとしています。
 警察は、カタオカさんを、日本赤軍の関西を拠点とする支援者メンバーとみなし、オオガさんを、かつての「過激派」から数年前に赤軍支援者となったとみなしています。警察はまた、カタオカさんを、海外の赤軍と連絡をしているとみなしています。
 警察は証拠収集という名目で、二人だけでなく、大阪府の他の7箇所の家宅捜査を強行しました。
 また、警察は、重信さんが滞在していたアパートから押収した2つのパスポートの調査を口実として、東京および7県、全国計41箇所のガサを強行しました。
 両方のパスポートは、日本政府によって発行されたもので、重信さんの写真が掲載されています。一つは1997年に吉田さんに、もう一つは本年初頭、山田さんに発行されたものでした。
 重信さんは、これらパスポートを活用し、1997年12月以来、過去数年の間、8回にわたって日本と他のアジア諸国の間を行き来してきました。彼女は、日本の出入りにもっぱら関西国際空港を利用してきました。
 警察は、ヨシダさんを、重信さんの主要な支持者の一人の親戚とみなしています。なぜ、重信さんがパスポートを取得できたのかという点で、警察は、ヨシダさん、ヤマダさんを取り調べています。
 重信さんは、11月8日に、二人の男の人と共に大阪・高槻のホテルから出てきたところを、1974年7月13日の日本赤軍によるハーグのフランス大使館占拠の嫌疑で逮捕されました。このことに関連して、11月9日には殺人未遂の容疑で再逮捕されました。 警察は、現在獄中あるいは公判中の日本赤軍メンバーに、ハーグ事件にかんする取り調べをなそうとしたが、そうした目論見はすべて黙秘によって頓挫しています。
 警察にとっては、重信さんは、1970年代における一連の国際的行動の黒幕としたい人物であり、何十年かにわたる8大要逮捕左翼の一人であったのです。
 重信さんは、東京生まれで、1969年には赤軍派の活動的メンバーで、前段階武装蜂起を通した世界同時革命をめざしていました。
 重信さんは、1971年にレバノン・ベイルートに入り、パレスチナ解放人民戦線PFLPと連携しました。レバノンに旅立って間もなく、重信さんは日本赤軍を組織しました。世界革命のための、独立した、国際根拠地を基盤とした組織として。


2000年11月27日

元赤軍メンバー、仏大使館占拠への重信さんの関与を否定
拘留を続ける根拠はない 直ちに重信さんを釈放せよ!

 1974年日本赤軍によるオランダのフランス大使館占拠は、日本赤軍創設者の重信さんが関与していない。警察はそうみなしていたが、パレスチナ解放人民戦線PFLP、元赤軍メンバーは取調官にそう語った。検察官の尋問にたいして、51才の元赤軍メンバーは、大使館占拠に重信さんが関与しているという嫌疑を否定し、それは1970年代に数多くのゲリラ戦を実行したPFLPによって指導されたと語った。
 日本赤軍の最高指揮官である重信さんは、仏大使館占拠への関与の嫌疑で国際手配され、11月8日大阪にて逮捕された。1974年9月、三人の日本赤軍コマンドはハーグの仏大使館を占拠し、大使と10名の職員を人質に取りった。逮捕されていた赤軍メンバーの解放を要求し、仏当局が偽造旅券での旅行中逮捕した11名のメンバーの釈放を勝ち取った。
 51才の元赤軍メンバーは、人質の釈放と交換で解放された11人の一人である。彼はまた、ベトナム革命戦争と連帯してシンガポールの石油タンクを爆破した1974年1月の戦いに加わっていたとされている。
 彼は、「戦闘的で、過激な方法にもはやついていかなくなった」という理由で1986年2月に日本赤軍を離脱したと取調官に語っている。彼は、その時点で、警視庁に自首した。彼は、有罪判決を受け、16ヶ月入獄した後、故郷の富山県の日本海沿いの浜に戻って暮らしている。
 重信さんは、大使館占拠における監禁、殺人未遂の嫌疑で逮捕されており、この木曜日に拘留期限が切れる。
 検察官は、獄中の幾人かの赤軍メンバーに重信さんの件での調査協力を申し込んでいるが、すべて協力を断られている。
 それ故、重信さんを拘留する根拠は崩壊している。直ちに重信さんを釈放せよ!


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